耳鍼療法との出会い

 当時、私は東京都渋谷区にある花田学園 日本鍼灸理療専門学校の夜間クラスの1年生で、昼間は横浜にある某フィットネスクラブのインストラクターの仕事をしていました。
 ある時、弊社の専務でもあった私の母から電話で話をしたときのことです。「横浜に耳に鍼をして治療をする有名な先生がいるから、見学させてもらえばいいじゃない。」と言われたんですが、すぐには実行しませんでした。正直に言うと、耳に鍼をして治療するなんて聞いたことがないし、ちょっとあやしいなと思っていました。

 2、3ヵ月後のある日曜日に、ふと母にそう言われていたことを思い出し、書き留めておいた耳の鍼の先生の連絡先に電話をして伺いました。普通の民家風の外観で、看板に「国際鍼灸治療院」とあり、駐車場は満車で治療待ちの方が何人も待合にいました。
 恐る恐る受付の女性に声をかけ、見学の旨を伝えてしばらく待っていると、作務衣姿の恰幅のいい白髪まじりの男性が出てきました。恩師である清水 蓮(しみず れん)先生との初めての出会いです。

 早速白衣に着替えて見学をはじめたのですが、今思うと、この瞬間が私にとっての大きな転換点でした。それまで勉強していた学校での授業は、東洋医学についての理論的なことばかりで、実際の臨床ケースはまだほとんど見たことがありません。清水先生の施術をずっと見ていると新鮮で驚くことばかりでした。身体への鍼だけでなく耳にも鍼をしていくのです。
 その日から週末で用事のないときは、先生のところに入りびたりです。見学はもちろん診療を終えたあとも、食事(主にお酒)をいただきながら、自分が疑問に思っていることや分からないことを先生に質問しまくりました。ですが、すべて明確な返答がかえってきます。
 東洋医学思想は学校の授業だけでも十分興味深いのですが、先生の場合はそれに加えて臨床でいろいろな症状を耳の鍼でどんどん改善していってしまうので、学生の身である自分にとっては面白く、耳鍼療法の凄さにどんどん引きずり込まれていったのです。
 国家資格試験に合格し、学校を卒業するころには自分なりに耳鍼療法で治療をしていく自信がついていました。

 清水先生はある時期に某鍼灸専門学校で教員をしていましたが、探究心旺盛な性格から中国に単身で勉強しに行き、耳鍼治療を学び、それを先生流に応用発展させて以来、ずっと治療院での治療・研究に励まれてきました。よって先生しか清水流耳鍼療法を実践している方は、私の知る限りいないのです。
 その後横浜市で何年か臨床治療経験を重ねて、愛知県瀬戸市のサンブライドムラタに入社して治療を始めました。この時に治療院名を「浄蓮院(じょうれんいん)」としました。サンブライドレンの前身となります。サンブライドに通われる方は女性がほとんどで、にきびやしみ、アトピー性皮膚炎などで、お肌のお手入れ・トリートメントをされます。身体の内因にも当然トラブルがおこっているわけで、ここに耳鍼治療を活用し、生理痛・生理不順・便秘・冷え性などの女性に多くみられる症状の改善を図り、お肌の状態を改善していくスタイルが始まりました。

 ちょうど愛知万博(愛・地球博)の準備が進められていたころ、先生には何回か瀬戸市に来ていただきました。年齢でいえば孫とおじいちゃんほどの開きがありましたが、似た者同士と先生にも思っていただいていたこともあり、本当に懇意にしていただきました。ですが、先生はすでに他界されています。いまでも鮮明に憶えていますが、2人で診療後にお酒を飲みながら話した中で、どうして蓮という名前を使ってみえるのか尋ねた時がありました。「蓮(はす)は泥の中にしっかりと根を張って、あんなに美しい花をさかせるじゃろ。わしもそれにならい、この人生で不浄な状況にあっても、しっかりと地に足をつけてまっすぐに茎をのばし、綺麗な花を咲かせたいんじゃ。」といわれたのです。

 以来、私の胸にもその想いが生き続けています。先生に出会わなければ、耳鍼療法との出会いもありませんでした。